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歴史から学ぶ ― 産めよ、殖やせよ:人口政策確立要綱閣議決定(1941年(昭和16年))

2021.2.15

今から76年前の話です

1941年(昭和16年)1月22日の近衛文麿内閣の閣議決定は歴史的に見て、個人の権利を侵害する決定でした。当時日本は大東亜共栄圏の確立を目指していて、人口増強策をとっていました。その背景で生まれた「人口政策確立要綱」は軍国主義の象徴的な人口政策であったと言えます。

ここに掲載の新聞記事は、1941年(昭和16年)1月16日(第1面)と1月23日の朝日新聞の写しです。

「日本民族悠久の発展へ 人口政策要綱案なる 近く閣議に付議決定」(朝日新聞1941年1月16日)、そして、「一家庭に平均5児を 一億目指し大和民族の進軍」(同1941年2月23日)と高らかに書かれています。

当時の日本の総人口は7350万人でした。上に述べた通りで、軍国主義を支えるべく人口増強策の提示と、具体的には、子どもを5人以上産むようにという国民への上からの呼びかけとなっています。日本は国として「産めよ、殖やせよ」という唱導とともに、「兵力・労働力の増強」を目指す要綱をもってして、「人口大国:日本」を目指すことになったのです。

当時の朝日新聞は、「従来の西欧文明にむしばまれた個人主義、自由主義の都会的性格がいけないのだ」と言明。「自己本位の生活を中心にし、子宝の多いことを避ける都会人の多いことは全く遺憾至極である」、「結婚年齢を10年間で3年早め、引き下げる。男子25歳、女子21歳に引き下げる」、「平均5児以上をもうける」、「(昭和35年には)1億人人口を確保する」などと続きます。

そして、多子家庭に対しての優遇策を提示しています。とくに多産の家庭には表彰制度があり、無子家庭や独身者には公立の課税をさらに課す、などと政策は謳っています。優遇策と冷遇策が明確に提示されています。

そして、この年、1941年(昭和16年)12月8日には、ついに真珠湾攻撃とともに太平洋戦争が始まりました。

戦争末期には、妊産婦や乳児への配給も届かず、多くの子どもを抱えた母親たちは、栄養失調と闘いながら戦火の中を逃げまどうばかりでした。

戦後においても、継続された政策のなかで効果があったものとしては、

  1. 乳幼児死亡率も含めた死亡率の削減、
  2. 結核予防施策、
  3. 花柳病(性感染症)予防施策、などです。また、
  4. 昭和17年(1942年)に導入された「妊産婦手帳」(戦後に、「母子手帳」、「母子健康手帳」へと発展)などの母子保健事業は継続されていて、これらは、その後にも大きな成果をあげています。

76年後の日本の今

日本政府は、2016年5月少子高齢化対策や働き方の改革を目指す「ニッポン1億総活躍プラン」をまとめました。「希望出生率1.8」を目指すなどがまとめられています。その中では、「人口1億人は、日本の豊かさの象徴的な数字である」とし、「人口1億人を維持する」と書かれています。

どのように見るかは、それぞれの方々の見解ではありますが、本来であれば、個人のウェルビーング(福祉)を目指した生活の視点からの福祉政策や家族政策を考えることが肝要であると思います。人口の数を提示した場合、国民が果たして、それを受け入れるかどうかは不明です。

活躍プラン案では、2025年までに「希望出生率1.8」を実現するために若者の雇用の安定化、待遇改善、結婚支援の充実、妊娠・出産・育児に関する不安の解消、多様な保育サービスの充実、保育サービスを支える人材の確保、働き方改革の推進、女性活躍の推進などを進めるとしています。

生活の質の向上としての施策であれば大歓迎です。
しかし、少子化を食い止めるために日本の人口を増やすことに重点を置いたものであるとしたならば、それは人口政策であり、わたしたちは注視していかなければならないと思います。

戦後の日本では、民主主義・国民主権・基本的人権のもと、一貫して合計特殊出生率は、政府によって提示されたものでなく、個々人がそれぞれ選択した結果による子どもの数の集積で成り立っていたのです。政府の「目標」ではなく、あくまでも国民の選択(リプロダクティブ・ヘルス/ライツ・自己決定権)の「結果」だったと思います。

歴史の教訓

先述したように、人口を増強するために、今から76年前「個人を基礎とする世界観を排して家と民族とを基礎とする世界観の確立、徹底を図ること」を目標の一つに掲げた「産めよ、殖やせよ」を目指した「人口政策確立要綱」が存在したことを思い出してほしいのです。そして、歴史の教訓を踏まえて、「ニッポン1億総活躍プラン」についても、引き続き注視していきたいと思っています。

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