被災後70日の岩手沿岸部を訪ねて 事務局長 石井澄江

2011.5.30

  • 東北の女性支援
  • レポート

~被災地訪問、 がれきの山のむこうに見たこと、感じたこと~

2011年5月20日から22日に、岩手県の被災地を訪問しました。
盛岡、釜石、大槌そして遠野に伺いました。東京に比べ、やや遅い春がたけなわで、道を走っていると緑の山々が連なり、心身共に洗われました。緑の山々を見ながら、「緑」にもこんなに多くのバリエーションがあったのかと、改めて新緑の森の素晴らしさ、日本の山々の美しさを認識させられました。

それが釜石市に入り、一変します。がれきの山を縫うようにして、整備された道を走ります。多くのがれきの山では赤さびが目立ち、震災からすでに2カ月以上が経っている事実を思い知らされます。にもかかわらず、腐った魚のような臭いが鼻を突きます。日常の風景の中に、がれきが同居しています。穏やかな春の景色が突如として、胸がつぶれるような光景に変わります。どう理解したらよいのでしょうか。日常と荒廃した非日常が同じ場所にあるのです。

被災地を訪問しながら妊産婦さん、そして女性を探しましたが見つかりません。訪問した避難センターにも高齢の女性は多く見られましたが、妊産婦さんや赤ちゃんを抱えたお母さんには殆どお会いできませんでした。訪問する先々で妊産婦さんや赤ちゃんのいるお母さんたちがどこにおられるのか伺っても、返ってくる答えは同じでした。「はっきりつかめていません。ただ、避難所には殆どおられません」。

岩手県でお目にかかった関係者の話から、どうやら妊産婦や新生児を抱えた女性たちはいち早く避難所から移動したらしいということでした。そのあとどこに身を寄せているかについては、実家、親類や友人の家などが挙げられていました。中には被災した家に戻っている方たちもいると伺いました。どうしてこんなことになっているのでしょうか。避難所なら同じコミュニティの人たちと一緒にいられるし、はじめは困難な生活を強いられたと思いますが、それでも何とか協同生活はできます。

お母さんと赤ちゃんはどこに

私が関係者のお話を伺いながら得た結論は、震災発生直後の混乱が大きく、おなかの赤ちゃんや、生まれたばかりの赤ちゃんを抱えた母親たちは、自分のことより赤ちゃんの安全を考えて、避難所を出たのだと思います。震災発生直後はどなたに伺っても生き延びることに必死だったとおっしゃいます。避難所に入って数日間はおにぎり一つで一日を過ごしたとか、飲み水がなくて苦労した等、というような状況では、妊産婦さんも赤ちゃんを抱えたお母さんも、避難所での生活では赤ちゃんの安全を守れないと思ったのではないでしょうか。

震災後数日間が過ぎ、避難所で何とか生活をすることができるようになっても、赤ちゃんや小さい子どもを抱えたお母さんたちは、新たな試練があります。避難所生活では、夜中に子どもが泣いたりすれば、全員に迷惑をかけることになります。小さな子どもが動ける場所もありません。授乳場所があるわけでもなく、おむつもなく、着の身着のままで、飲み水にも事欠くような状態では赤ちゃんのミルクを作ることも、体を拭いてあげることさえもできません。避難所から妊産婦と赤ちゃんを抱えたお母さんたちがいち早くいなくなった理由はよく分かります。

地元の助産師さんとともに

ジョイセフがとったアプローチは間違っていなかったと改めて強く思いました。現地の助産師さんを中心にしたサポート体制の側面支援。さらには、助産師さんや保健師さん・ボランティアの方たちとの連携での物資支援。宮城県の多賀城市や山元町で行った在宅避難をしている母と子のための「元気市」(詳細はウエブを見てください)。また、岩手県はもりおか女性センターと岩手県助産師会の連携協力で、妊産婦だけではなく、被災した、でも声が聞こえてこない多くの女性たちにも支援ができそうです。

ジョイセフに寄せられた支援の多くはジョイセフが妊産婦と女性を支援していることへの賛同によるものです。地元の助産師さん、そして市町村で母子保健行政に携わっておられる担当者との連携・協力で息の長い支援をこれからも続けていきたいと思います。
ご支援頂いているみなさまにも引き続き行うジョイセフの妊産婦や女性への支援にご理解・ご協力をお願いいたします。

(財)ジョイセフ
事務局長・石井澄江