人口・家族計画分野のリーダー、
ジョイセフ初代理事長:古屋芳雄(1890-1974)

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2016.6.30

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古屋 芳雄

人間の心を描く小説家・戯曲家としてのスタート

古屋(こや)芳雄は、自伝によると、大分県の「山深い寒村」で、医師である父、医家に生まれた母との間の9人兄弟の長男として生まれました。「素行はいつも「丙」であったが、成績は最高の地位にいた」、七高・造士館(鹿児島市)から東京帝国大学(現在の東京大学)医科大学を1916年(大正5年)に卒業。高等学校の時から文学に目覚めていた古屋は、森鴎外にあこがれ、「弟子にしてほしい」と懇願する手紙をしたためたこともあったようです。「文学と医学の間をふらふらしていた」時代でした。

文学的な才能に恵まれていた古屋は、当初は小説家としての功績の方が大きかったと思います。1917年(大正6年)には自ら友人たちと「青空」を創刊し、1919年(大正8年)には、処女作でベストセラー小説となった「地に嗣ぐ」、1920年(大正9年)「暗夜」、1921年(大正10年)に戯曲「地の塩」などを刊行しました。キリスト教的な精神主義をベースにした物語の多くは、当時の若者たちの心を「虜」にしたと評価されています。人間の心の機微を丁寧に描いた文学者で青春小説の名手であったといわれています。

この後に、古屋は、本人曰く、ロシアの文豪トルストイのような文学者の才能に圧倒され、自分の持つ才能に見切りをつけて、再度、医学に専念することになったと述べています。

1926年(昭和元年)36歳で医学博士号を取得、千葉医科大学教授や東京医学専門学校(医専)講師などを歴任。1932年(昭和7年)に金沢大学医学部教授。公衆衛生・民族衛生学・遺伝優生学分野の研究者として、当時の日本の農村地域における疫学調査、人口政策、人口転換の研究、国民の体力法立案に関する研究などに関係していきました。

1927年(昭和2年)には、当時の婦人雑誌で取り上げられ、家族思いの医師であり文学者としての側面が紹介されています。海外留学中の3人の子どもとの手紙のやり取りが紹介されるほど子煩悩であったようです。

その後は厚生省の政策づくりに気鋭の医学者・研究者として影響を与えていきます。1939年(昭和14年)に厚生省の技師に任官。公衆衛生を担う保健所の機能強化、1941年(昭和16年)の保健師制度の発足、1942年(昭和17年)の妊産婦手帳の立案にも厚生省内部で参加しています。後に、1942年(昭和17年)、当時の厚生省研究所(1946年(昭和21年)に名称を改めて国立公衆衛生院)の2代目院長に就任しました。

joicfp_setsuritsuジョイセフ設立会議(1968年(昭和43年)4月)で挨拶する古屋芳雄理事長。古屋の左隣が岸信介会長、正面が國井長次郎常任理事・事務局長

国際協力へ:人づくりから開始

古屋は、1952年(昭和27年)の国際家族計画連盟(IPPF)の発足にも立ち会っています。日本における家族計画モデル村の報告は、その後の世界の家族計画運動に大きな影響を与えたと記録されています。国内でパイオニアであった古屋が国際的な仕事に乗り出していくのです。

このような背景と経歴を持つ古屋が1968年(昭和43年)に初代のジョイセフ理事長に就任しました。公衆衛生、家族計画、人口問題など幅広い分野において、高い知見と経験を持つ論客として、また、それらの集大成に努めた古屋は最適任者でした。まさに「この人をおいてなかった」という言葉で説明できます。

その後、1974年(昭和49年)に逝去するまで、古屋は、6年近く初代のジョイセフ(2011年までは公式名:(財)家族計画国際協力財団)を、後半は病の床に伏してはいましたが、初代理事長として財団の基礎を形づくりました。当時の岸信介会長、山地一寿常任理事、國井長次郎常任理事・事務局長とともに、古屋自身が文学者として人々の心に寄り添い、医学者・公衆衛生学者としての明晰な頭脳と経験、実績を持ち、国際的な広い視野からジョイセフの創成期を築いたと言えます。

世界の人口問題や保健分野の国際支援を行うジョイセフでの最初の仕事は、古屋や國井、村松を中心に企画した、途上国の養成に応えた指導者に対する研修事業としての「家族計画セミナー」の実施でした。第1回目は日本家族計画連盟の理事長であった古屋が国際家族計画セミナー委員長として、OTCA(海外技術協力事業団、現在のJICAの前身)の委託を受けて1967年(昭和42年、ジョイセフ発足の前年)に実施を開始し、ジョイセフ(家族計画国際協力財団)発足(1968年、昭和43年)以降は、ジョイセフが今日まで継続的に本事業を担当してきています。古屋の始めた人づくり事業(研修・人材養成事業)は、今日もジョイセフの活動の大きな柱となっています。

また、ジョイセフ創成期のもう一つの重要な仕事は、国連人口基金(UNFPA)や国際家族計画連盟(IPPF)への日本政府の任意拠出金による支援の開始でした。1969年(昭和44年)のIPPFに対する10万ドル、1971年(昭和46年)には、UNFPAとIPPFにそれぞれ100万ドル及び50万ドルから始まる日本政府の国際的な人口問題への任意拠出金での貢献の端緒を開いたのです。

国立公衆衛生院院長などを歴任した日本の戦後の公衆衛生や家族計画のパイオニアであった古屋芳雄を師と仰ぎ、人間的な魅力に魅了された多くの人口問題・家族計画分野の人的ネットワークは次世代にわたっても、その後のジョイセフの活動の根幹となる人的資源となっていきました。

先駆者の惜しまれた死

古屋芳雄は1971年(昭和46年)ごろから体調を崩し、1974年(昭和49年)2月22日心不全のため逝去、享年84歳でした。世界の人口問題の初めての政府間会議となる世界人口会議の成果を見ずして他界しました。無念であったと思います。葬儀は、1974年(昭和49年)3月2日に国立公衆衛生院で、日本家族計画連盟葬として執り行われました。葬儀委員長・岸信介、岸は弔辞で「人口問題に対する私の眼を開いて下さったのは、古屋博士でありました」「自分とドレーパー将軍と古屋先生の3人で日本の国際協力の在り方について話し合ったことが昨日のことのようです」と述べています。斎藤邦吉厚生大臣、武見太郎日本医師会会長、加藤シヅエ連盟副会長からも先駆者にささげる弔辞がありました。約500名の参列のもとでしめやかに営まれ、人口問題に警鐘を鳴らし、公衆衛生の高い見識をもち、世界の家族計画運動のパイオニアであった古屋芳雄を惜しみました。

 
(ジョイセフ常務理事 鈴木良一、2016年7月、東京にて)