ひとジョイセフと一緒に、世界を変えていく「ひと」

世界と日本がつながる 橋渡しをしていきたい。

業務執行理事・事務局長

勝部 まゆみ

2021.8.24

1980年代、私はUNDP(国連開発計画)のJPO(各国から国際機関に派遣される非正規の職員)として、西アフリカのアフリカ大陸で最も小さな国・ガンビア共和国にいました。その頃ジョイセフは「ジョイセフニュース(JOICFP NEWS)」という英語のニュースレターを発行していて、世界各国にある国連機関の事務所に毎月郵送していました。
私は、日本のNGOからのニュースレターを、毎月とても楽しみに読んでいました。

任期2年のJPOの多くは、その実績を手に国際機関へ進むことを希望するのですが、私は個人的事情もあり、漠然と日本に戻って仕事をしたいと思っていました。ニュースレターで知ったジョイセフにとても惹きつけられて、ここで働きたい、と切望するようになり、ガンビアから手紙を送りました。帰国してジョイセフの職員になれたのは、幸運でした。1987年のことです。

国際協力の現場にいたい。
だから開発途上国へ向かい、溶け込む。

当時のジョイセフは現在のようにスタッフが長期間海外に行くことはなく、短期ベースで出張して活動していました。ジョイセフに入って1年数カ月ほど経った頃、日本赤十字社からエチオピアに行かないかと打診がありました。
「もう一度現場で仕事をする最後のチャンスかもしれない」。
そんな気がして、私は、「休職してエチオピアへ行きたい」とジョイセフに相談してみたのです。非常識で、無茶な話ですよね。そんな前例はないし、予定どおりに帰国する保証もないでしょうと言われて、やはり、休職の希望は叶いませんでした。でも、行きたい思いが薄れることはなく、退職してエチオピアへ向かいました。ジョイセフに就職して、ほどなく辞めることなってしまいましたが、咎められることもなく送り出してもらったので、それは本当にありがたかったです。

当時のエチオピアは、1980年代の干ばつからの復興支援が進められていました。私は赤十字による復興プロジェクトに関わり、3年間駐在。その間もジョイセフとはつながり続けました。エチオピアでは任期後半に内戦が激しさを増していき、任期終了と同時に帰国。そのタイミングが良かったのか、これもありがたいことにジョイセフに復職することができ、今に至っています。

ジョイセフでこれまで活動した国際協力の現場では、1990年代後半から2000年代前半に関わったベトナムが特に印象に残っています。ジョイセフとして初めてスタッフを長期派遣したプロジェクトで、JICAからの出向として計5年半現地にいました。その頃の私にとって国際協力に関わることは、「現地で暮らして仕事をする」ことでした。その地域の人たちと一緒に活動することが、必要だと思っていたからです。

ただベトナムは、それまで係わったガンビアやエチオピアとは、かなり状況が違っていました。思い返してみると、ベトナムはアジア圏で、時代も進んでいたので、地方にいてもジョイセフやJICAなど、日本との連絡も日常のことでした。

ガンビアやエチオピアにいた当時は、パソコンもインターネットもなく、国際電話もよほどの理由がなければできないほど通信手段が限られていました。
特にガンビアは、実際は空港の滑走路は一応舗装されていましたが、赴任前に空港は草むらだと先輩から聞かされたり、自称スーパーというお店の棚はたいていがら〜んとしていたし、手紙を出してもいつ届くか分からない。雨が降ると電話はつながらないなど、あらゆるものが、日本での日常と違っていました。ですが、それが苦痛だとは感じていませんでした。

国ごとに事情も風土も異なります。必要とされる支援の形も異なります。そのニーズを理解するために、国々の実情をできるだけ知ることが、助けになると思います。ただ、今となっては自分に足りなかったことばかりが思い出され、今でも、遠い過去の出来事や自分の後悔の記憶に冷や汗が出ることがあります。

ジョイセフの思いと活動を伝え続けること。

ジョイセフのスタッフは、さまざまな事業に携わっています。そしてどの現場にも、必ず担当者の熱い思いがあります。
ジョイセフは、女性の健康と命を守る団体として、ジェンダー問わず、多様な人たちが自ら選択し、健康に生きていける世界を目指しています。日本を含めて世界ではジェンダーの格差、女性が抱えている問題など解決しなければならないことがまだ沢山あります。日本もかつては途上国で、諸外国からの支援を受けてここまで来ました。

今も日本は、日本だけで生きていけません。東日本大震災発災時に、私たちは、どれだけ多くの国から支援を受けたことでしょう。支援を届けてくれた国の中には、開発途上国もたくさんありました。
私には、日本もかつて、たくさんの恩恵や支援を海外から受けてきたことを忘れずに活動していきたいという思いがあります。そして、自分が働くジョイセフが、世界の中のひとつの国、日本で生まれ、そこに拠点を置くNGOで良かったと感じています。

ジョイセフを知るきっかけが「思い出のランドセルギフト」や「I LADY.」という方は多く、妊産婦の方から寄附をしていただけることも増えています。その際に寄せられるメッセージには、世界のことを自分ごととして捉えている、何かしたい、という思いをかなえる方法としてジョイセフを応援している、などが書かれています。熱い思いを言葉にしたメッセージには、本当に励まされています。また、子どもたちにも、ジョイセフの活動、ジョイセフが目指している世界のことを知ってほしいと思います。

東日本大震災が起きるまでは、ジョイセフは海外を支援活動の対象としていました。認可されている分野が「海外」の支援だったからです。以前から「もっと国内でも活動してほしい」という声をいただいていましたが、国内で多様な活動をしていなかったのは、団体の活動として認められていなかったからです。

しかし東日本大震災をきっかけに、また同じ年に財団法人から公益財団法人に移行したこともあって、国内での支援活動分野でも認可を受けました。2011年は、ジョイセフにとってのひとつの分岐点でした。現在は、国内でもさまざまな活動をしています。

ひとつの団体が何もかもできるわけではありません。とはいえ、もっと活動を拡げてほしいという要望も寄せられます。セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツの実現を使命とする団体として、どう対応していくかは、これからのジョイセフの課題です。

気づくとあれもこれもやりたくなるのがジョイセフのスタッフたちですし、ジョイセフそのものです。しかし気持ちだけで動いてはいけません。
私たちは団体として何ができて何ができないのか、そのスタッフとして何ができるのかを、各自がしっかり理解しておかなければならないと、ジョイセフのスタッフは皆、真剣に考え、動いています。

SNSで発信することが当たり前になっている現在。世の中はどんどん変化していて、伝達の手段が変わると、受け取り、届けるために、どこにアンテナを張れば良いのか、また張られているのか、どう伝えて良いのかがわからなくなることもあります。けれど発信することの重要性は確実に高まっています。受け取り方はこちらから指定できませんから、発信方法と内容を丁寧に考えていく必要がありますね。

「伝える」ことはもはや、支援を続けていくための重要な任務になっています。私もそこに、力を入れていきたいと思います。

持続可能な開発目標(SDGs)が国連で採択されたとき、世界全体が、少しずつではありますが、良い方向に向かっているのではないかと思えました。ですが、今、世界はどこに向かっているのか、不透明で不確実な事態が私たちを襲い、このままでは、さらに大勢の人々が取り残されてしまいます。そこに対してジョイセフはどうする? という問いに応える努力を続けることが、私たちジョイセフスタッフに求められていることです。

世の中が求めていることに追いつかなければならない。しかし追いついたとしても、安心してはいけない。メッセージを受け取ったら考え続けなければならない。ジョイセフの活動に、終わりはありません。

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