ひとジョイセフと一緒に、世界を変えていく「ひと」

私とSRHRとの出会いから、今まで

ジョイセフ理事

芦野 由利子

2023.4.12

ジョイセフ理事の芦野由利子さんは、ジョイセフを設立した國井長次郎さんの秘書として働きながら家族計画に携わるなかで、SRHR(セクシュアル・リプロダクティブ・ヘルス/ライツ=性と生殖に関する健康/権利)は自分ごとであることに気づいたといいます。SRHRとの出会いに至る経緯と、SRHRが女性の人権として保障される社会を求めて、どのような活動をされてきたのかうかがいました。

 


出発点は國井長次郎さんの秘書

私がジョイセフに関わるようになったのは、大学を卒業してすぐの1969(昭和44)年、たまたまジョイセフができた翌年で、ジョイセフの創設者である國井長次郎(くにいちょうじろう/1916-1996)さんの秘書になったことがきっかけです。当時は家族計画についてほとんど何も知らず、ただ健康に関係のある職場という点に惹かれての就職でした。

当時、國井さんはほかのどの仕事よりも、この生まれたての組織に力を入れていましたから、私も必然的にジョイセフに深く関わるようになりました。国際協力の団体といっても、職員は10人いるかいないかで、英語のできる人もほとんどおらず、英米文学を専攻したということで私にも英語の仕事が回ってくるようになり、おぼつかないながら多少は役に立ったようでした。

國井さんは、独創的なアイディアとエネルギッシュな行動力を持つとても魅力的な人物で、常に人びとのために何ができるかを考えていました。戦後まもなく始めた生産合作者運動(注1)には残念ながら挫折したものの、その後は寄生虫予防から予防医学、家族計画、母子保健とさまざまな分野に挑み、そのための団体を次々に立ち上げ、成功を収めていました。國井さんのダイナミックな仕事ぶりは、一本の幹からたくさんの枝が出て、緑豊かに育った大きな樹木を想像させました。ジョイセフは、いわば最後に生まれた枝でした。

第二次世界大戦後、開発途上国では人口が爆発的に増え、人口問題は世界の最優先課題になりました。そこで国連はこの問題に取り組むため、1967(昭和42)年に信託基金を設け、その後いくつかの段階を経て、国連人口基金(UNFPA)として活動を続けています。

一方、高度成長を迎えた日本に対して、人口分野の国際援助を望む声が年々大きくなり、戦後短期間に出生率を半減させた「家族計画成功国」に学びたい、という期待が高まっていました。そこで國井さんは、それらの要望に応えようと、家族計画国際協力のための民間団体をつくる決心をし、人口政策の手段ではなく、個人の幸福のための「人間的家族計画」(Humanistic Family Planning)を目指しました。1954(昭和29)年に日本家族計画協会を設立していたこともあり、國井さんには、国内の家族計画普及を通し豊富な経験と人的ネットワークがすでにありました。

こうしてできたジョイセフは当初、家族計画国際協力財団という長い名前でした。英語の頭文字がJOICFPなものですから、いつの間にか海外の人たちから「ジョイセフ」と呼ばれるようになり、時を経て2011 (平成23)年に正式名称を現在のジョイセフに変更したのです。

注1 社会改良の目的でつくられた中国の協同組合の一般的呼び名。國井さんは、生産、信用、販売、購入における合作化(集団化)を推進する中国の合作社制度にならい、仲間を募りこの運動を始めたが、超インフレに見舞われ挫折した。

ジョイセフの創設者である國井長次郎

加藤シヅエさんとの出会い

ところで、國井さんが日本家族計画協会を設立したのと同じ年に、日本家族計画連盟という民間団体が誕生しました。日本家族計画連盟は、加藤シヅエさんをはじめ、戦前から産児調節(注2)の普及に取り組んできたパイオニアを中心に、設立されました。きっかけは、国際家族計画連盟(IPPF)が1955(昭和30)年に東京で国際家族計画会議を開催することになり、日本側に受け皿が必要になったことです。

戦後、産児調節運動が解禁されると、あちこちに類似の小規模団体が生まれました。日本家族計画連盟は、それらの相互連携を図るため、いわば傘になる団体としてつくられたわけです。やがて、家族計画協会が家族計画連盟の事務局も担うようになり、両者はまさに二人三脚で国内の家族計画普及活動を牽引しました。ただ残念ながら、家族計画連盟は、会長を務められた加藤シヅエさんが2001(平成13)年に104歳でお亡くなりになったのを機に、歴史的役割を終えたということで2002(平成14)年に解散したため、いまは存在しません。

加藤シヅエさんは、理事会などの折に國井さんの部屋に寄って、よく話し込んでいらっしゃいました。そういうときのお二人は本当に楽しそうで、同じビジョンを目指す同志のように見えました。必然的に私も加藤シヅエさんにお会いすることが多くなり、幸運にも徐々に秘書的仕事を任されるようになりました。

加藤シヅエさんは20代のはじめ米国に留学し、そこで「家族計画の母」といわれ、後に、中心メンバーとしてIPPFを設立したマーガレット・サンガー(1879-1966)に出会います。サンガーのバース・コントロール運動に深く共鳴した加藤さんは、帰国後自らも運動を始めますが、軍国主義のもとで厳しく弾圧され、投獄までされてしまいます。それでも信念を貫いた加藤シヅエさんは、まさに日本の産児調節運動を代表する存在でした。

注2 産児調節は産児制限ともいわれる。個人またはカップルが、避妊法を使って望まない妊娠を防ぎ、いつ何人子どもを産むか産まないかを選択すること。家族計画(family planning)も基本概念は同じ。一般に産児制限の場合は、子どもの数を減らすというニュアンスが強いようだ。バース・コントロール(birth control)も使われることがあるが、これは20世紀初頭にマーガレット・サンガーが考案した造語。サンガーは中絶には否定的だった。

写真 加藤シヅエ(左)、國井長次郎(中)

転機になった優生保護法「改正」問題

戦後にできた優生保護法

就職してからおよそ10年間は、國井さんの秘書として指示されるまま、みなさんの後について働いていた私ですが、ありがたいことに、國井さんが次々に新しい仕事にチャレンジする機会を与えてくれました。國井さんは「いつまでも私の秘書をしているな」と発破をかける、一風変わったボスだったのです。図らずもそれが現実になったのは、1982(昭和57)年の優生保護法「改正」問題(注3)のときでした。それは、私が少しずつ秘書を“卒業”する転機になりました。

優生保護法は、戦後まもない1948(昭和23)年に制定された法律です。当時は敗戦後の困窮状態のなかで、有効な避妊法もありませんし、中絶は1907(明治40)年の刑法堕胎罪によって禁止されていましたから、妊娠しても産めない女性は危険な闇中絶に頼らざるを得ませんでした。そのためたくさんの女性が命を落とし、後遺症に苦しみました。一方政府は、急激な出生増加は国の復興を妨げるとして、戦前の「産めよ殖やせよ」から一変し、人口を抑制することを考えていました。

こうした状況のなかで戦前の国民優生法を焼き直し、「優生上の見地から不良な子孫の出生防止」と「母性の生命健康の保護」を目的とする優生保護法が急遽制定され、中絶が条件付きで認可されたのです。言い換えれば、堕胎罪で罰せられない例外規定として、許可条件を設けたのでした。その後、中絶する医師を特定する指定医制度をはじめ、許可条件に経済的理由を追加するなど、いくつかの改定が行われました(注4)。政府は表立っては人口政策をうたいませんでしたが、中絶合法化の背景にはあきらかに過剰な人口を抑制する意図があったのです。

また、優生保護法は遺伝性疾患や精神病、ハンセン病を理由に、優生手術と称して不妊手術(永久避妊手術)ができるようにし、なんと「公益上必要」なときは強制的に不妊手術を行うことまでも合法としました。障害者や女性たちは、このような障害者差別の法律は廃止すべきである、と以前から訴えていたのですが、その後海外からも批判があがるようになって、1996(平成8)年にようやく優生保護法から「優生」の部分が削除され、母体保護法へと改定されたのです。強制不妊手術の被害を受けた人たちは、2018(平成30)年から全国各地で国の賠償と謝罪を求め裁判を起こしています。

注3 優生保護法改正の真のねらいは中絶禁止にあり、実態はむしろ改悪であるとの認識から、改正にかぎ括弧をつけて「改正」と表記する。

注4 法律の歴史についてはこちら(https://www.joicfp.or.jp/jpn/column/3-laws-history/)を参照

2度の「改正」問題

優生保護法「改正」のねらいは一言でいうと、中絶禁止でした。中心になって動いたのは、「生長の家」という宗教団体を支持基盤に持つ自民党の国会議員です。「改正」問題は、実は2度起きていて、1回目は1972(昭和47)年でした。その中身は、①中絶の許可条件から「経済的理由」を削除、②許可条件に新たに「胎児に重度の障害がある場合」(胎児条項)を追加、③適正年齢における初回分娩の指導、でした。「改正」案には、多くの女性や障害者からたちまち反対運動が起き、日本家族計画連盟も「家族計画は基本的人権である」という立場から反対声明を出しました。その結果「改正」案は、国会に上程されたものの継続審議となり、その後廃案になりました。

当時の私は、家族計画の団体にいても、何が問題かがよくわからず、まるで傍観者のようだったと思います。ただ、ひとつだけ鮮明に覚えているエピソードがあります。家族計画連盟が厚生省(当時)などとの共催で毎年開く母子保健家族計画全国大会で起こった事件でした。ピンクのヘルメットをかぶった「中ピ連」の女性たちが突然会場になだれこみ、壇上に駆け上がって「国家による子宮管理反対!」と叫んだのです。中ピ連は1972年に結成された「中絶禁止法に反対しピル解禁を要求する女性解放連合」の略称で、ほかの女性運動とは一線を画した過激な運動をしていました。

私は思いがけないできごとに呆気(あっけ)にとられるばかりで、「国家による子宮管理」という言葉だけが、意味不明ながら強く心に残りました。それからまもなく、意外にも中ピ連の代表が連盟の事務所にやってきたのです。詳しいいきさつは忘れましたが、私も先輩の女性職員と一緒にその人の話を聞きました。なかなか興味深い内容だったのをうっすらと覚えています。中ピ連はマスコミを騒がせましたが、比較的短期間で活動をやめてしまいました。

「私のからだは私のもの」

私のなかの意識変革

それからちょうど10年後の1982(昭和57)年に、またぞろ同じ議員が優生保護法「改正」案を出してきました。ただ、2回目は「日本はすでに経済大国なのだから経済的理由は不要だ」として、「経済的理由」削除だけに焦点を絞った「改正」案でした。国の経済力と個人の経済力は別なのに、この理屈はナンセンスとしかいいようがありません。

10年前と違ったのは、自分でも不思議なほど、理屈抜きで疑問と怒りが湧いてきたことです。「私のからだは私のものなのに、なぜ国が介入するの? 中絶をするかしないかを決めるのは当事者の女性自身であるべきで、国がそれを決めるのはゼッタイにおかしい!」と思ったのです。家族計画の仕事を通して、さまざまな人や情報に接するうちに、私のなかで少しずつ意識変革が起きていたのでしょう。以前は何を意味しているのかわからなかった「国家による子宮管理」という言葉も、ストンと胸に落ちました。

そこで私はすぐに「家族計画連盟として何かするべきではないか?」と、國井さんと当時の連盟事務局長だった近泰男(こんやすお/1928-2017)さんに提案しました。その結果、「家族計画は基本的人権である」という理念のもとに、1回目の声明をさらに充実させ、優生保護法「改正」反対を訴える声明文を発表したのです。この理念はIPPFが推進する国際家族計画運動の根幹をなすもので、国連の宣言や国際条約にも繰り返し明記されています。家族計画連盟は単独で声明を出す一方、助産師や看護師など複数の関連団体に働きかけ、共同の反対声明も出しました。連盟には賛同の声が次々に届きました。

堕胎罪廃止に向けた闘い

日本では「経済的理由」による中絶が大部分を占めているので、経済条項が削除されればほとんどの中絶は違法となり、堕胎罪で処罰されます。実質上の中絶禁止につながる「改正」に強い危機感を持った女性たちは、全国各地で反対運動を始めました。家族計画連盟は一種の情報センターのようになり、私と同僚はマスコミの取材、政府や国会議員への陳情、反対署名の集約、関連組織との連携、さまざまな問合せへの対応などに連日忙殺されました。

ありがたかったのは、秘書としての仕事がついおろそかになってしまっても、國井さんからは苦情ひとつなかったことです。むしろ、背中を押していただきました。また、加藤シヅエさんの存在は、私の精神的支柱でした。特に心に残っているのは、私のようなずっと年下の人たちに対しても同じ目線で接してくださったことで、私は勝手にシスターフッド(女性同士のつながり・共感)を感じていました。

女性を中心とした大規模な反対運動の結果、ついに与党自民党も「改正」推進派と慎重派に分裂し、2回目の改正案は国会提出前に阻止することができました。しかし、女性たちにとって、これは闘いの終わりではありませんでした。なぜなら、優生保護法という人権侵害の法律そのものは依然として残ったままだったからです。それに女性たちは、刑法堕胎罪を廃止し、中絶を非犯罪化しない限り、私のからだを私自身の手に取り戻すことはできないことに、はっきり気づいたのです。

「グループ・女の人権と性」から見えたもの

リプロダクティブ・ライツ、リプロダクティブ・ヘルスとの出会い

反対運動を通して、私には思いがけない展開がありました。私を含めわずか10人の女性たちと、1982(昭和57)年に「グループ・女の人権と性」を立ち上げることになったのです。メンバーは、ジャーナリスト、医師、弁護士、編集者、活動家、教師、ライターと多彩でした。目的は優生保護法と堕胎罪を廃止し、性と生殖に関する新しい法律と社会制度をつくることでした。

グループは頻繁に集まって議論を深め、シンポジウム開催や出版物の発行、カナダ映画『中絶-北と南の女たち』の日本語版作成・上映など、家族計画連盟と連携をとりながら、約10年間にわたりさまざまな活動を行いました。このときに築いた人的ネットワークは、連盟にとって、ひいてはジョイセフにとっても、貴重な財産になったと思います。幸いだったのは、家族計画連盟が「グループ・女の人権と性」の事務局になることを、理事会が認めてくれたことです。國井さんの率いる職場には、窮屈な規則もなくのびやかに仕事ができる雰囲気がありました。日本は高度経済成長下で、国全体にもゆとりがあった時代でした。

「グループ・女の人権と性」は、欧米や開発途上国の女性運動とも連携をとり、最新の海外情報を得ていましたから、リプロダクティブ・ライツ、リプロダクティブ・ヘルス、リプロダクティブ・フリーダムといった言葉も、いち早く知ることができました。そこで、女性の人権と性に関わるこれらのキーワードを、何とか日本語に翻訳しようということになり、何度も議論を重ねた結果、あまり満足できる日本語訳ではありませんが、リプロダクティブ・ライツを「性と生殖に関する権利」、リプロダクティブ・ヘルスを「性と生殖に関する健康」と表記することにしたのです。

私たちがこの日本語訳をつくったと主張したいのではありません。ほかにも同じような試みをした人たちがいたかもしれませんし、ここでいいたいのは、リプロダクティブ・ライツ、リプロダクティブ・ヘルスが、いかに日本語にしにくいかということです。できればもっといい日本語があるといいのですが・・・。

1990(平成2)年にグループとして出した『リプロダクティブ・ヘルスを私たちの手に』というパンフレットでは、リプロダクティブ・ヘルスに「性と生殖に関する健康」と書き添えました。いまにして思うと、パンフレットの表題にリプロダクティブ・ライツを入れなかったのが悔やまれますが、日本社会では「権利」に対する抵抗が強いので、まずは「健康」から入ろうというのが、悩んだ末の結論でした。パンフレットには、私たちが望む法律と制度についての、具体的な提言も載せています。

リプロダクティブ・ライツとリプロダクティブ・ヘルスを日本語に訳したものの、当時この言葉を知っている人はとても少なかったので、説明が大変でした。それだけに、4年後の1994(平成6)年にエジプトのカイロで開かれた国際人口開発会議、通称「カイロ会議」で、リプロダクティブ・ライツとリプロダクティブ・ヘルスが提唱され、女性のエンパワーメントとジェンダーの平等が強調されたことは、私たちに「自分たちの目指す方向は間違っていなかった」という強い確信を与えてくれました。

新しい概念を表すSRHRという言葉

ところで、カイロ会議ではリプロダクティブ・ライツとリプロダクティブ・ヘルスに、セクシュアルという言葉は入りませんでした。バチカンやイスラム諸国の反対が強かったためです。ただし、日本政府も含め179カ国が採択した「カイロ行動計画」には「リプロダクティブ・ヘルスは…セクシュアル・ヘルスも含む」という文言がしっかり入っています。その後、国際社会ではセクシュアルを入れて表記することがだんだん多くなり、現在はSexual and Reproductive Health and Rightsを省略した「SRHR」が広く使われるようになっていますね。この変化には隔世の感があります。

リプロダクティブ・ヘルス、リプロダクティブ・ライツ、SRHRという言葉が提唱する新しい概念は、性道徳や宗教、家父長制、国の人口政策などによって管理され、支配されてきた女性のからだと性を、女性自身の手に取り戻す、という考えが核になっています。具体的には、避妊・妊娠・出産・中絶など性と生殖に関わるさまざまなことがらを、健康と権利の問題として位置づけ、必要な情報・手段・ヘルスケアサービスを、生涯を通して保障することです。なお、SRHRは女性にとって特に重要ですが、男性にも関わりのある問題だということを確認しておきたいと思います。

SRHRに見るように、新しい概念が生まれると、それを表すために新しい言葉が必要になります。新しい言葉が登場すると、現実に起きているにもかかわらず、ないことにされてきた問題が、可視化され認識されるようになります。たとえばバース・コントロールは、女性が主体になり、避妊法を使って産むか産まないかを調節するという、革命的ともいえるサンガーの考えを表す言葉で、サンガー自身がつくり出したものです。さらに、性に基づく暴力はずっと昔からあったにもかかわらず、セクシュアル・ハラスメントやDV(ドメスティック・バイオレンス)などの言葉によって可視化されるまでは、人権侵害の問題として認識されませんでした。

サンガー、天野景康ほか

このように、新しい言葉を持つことで、私たちは何が問題かを明らかにし、その問題認識を多くの人と共有できるようになります。だから、リプロダクティブ・ライツ、リプロダクティブ・ヘルス、SRHRという言葉が登場した意味は、とても大きいのです。中絶合法化を求める世界の女性たちの闘いや、国の人口政策に「ノー」を突きつけた女性たちの闘いがなければ、これらの言葉が国際社会で市民権を得ることはなかったでしょう。

日本はSRHR途上国

女性のからだの自己決定権を否定する家父長意識

最後に、日本の現状を考えたいと思います。今の日本は、残念ながら世界から大きく遅れをとっています。例えば、避妊法の選択肢は少なく、緊急避妊薬(アフターピル)は承認されていても高価で、薬局販売はまだ認められていません。近々承認されるといわれる経口中絶薬も、価格設定が国際基準に比べて高すぎるし、ほかにもさまざまな制約があって、とても利用しにくい薬になるおそれがあります。承認されてもアクセスが困難では意味がありません。

中絶の要件である「配偶者の同意」も、安全な中絶へのアクセスを妨げています。このことでもわかるように、母体保護法は女性の自己決定権を保障していないのです。必要なのは、今も残っている100年以上前の刑法堕胎罪を廃止して、母体保護法をSRHRの理念に沿った法律に変え、社会・教育・福祉制度を整えることです。ほかにも包括的性教育がほとんどなされていない、気軽に相談できサービスが受けられる場がないなど、ここでは説明しきれないほど、問題が山積しています。

経口避妊薬(ピル)は1999(平成11)年に承認されましたが、それまで実に長い時間がかかりました。それというのも、ピルを認めると性道徳が乱れる、性感染症が広がる、果ては環境ホルモンが増える、といった非科学的で不合理な理由からさんざん「待った」がかかったためです。一方で、男性が使うバイアグラはたった6カ月で承認されました。そのときに痛感したのは、男性中心の日本社会に根強く残る家父長意識でした。端的にいうと、女性が自分の意思で産むか産まないかを決めることを嫌がる人たちがいるのですね。このことからも、SRHR実現にはジェンダーの平等がいかに不可欠かがわかります。

次世代に引き継がれるバトン

SRHRの源泉をたどると、サンガーなど欧米を中心とした20世紀初頭の女性たちの運動に行き着きます。これを第一波フェミニズム運動とすれば、第二波は1960年代に起きたウーマンリブと呼ばれる女性解放運動といえるでしょう。ウーマンリブは米国に始まり、日本を含め世界に広がりました。女性たちは同じ志を持ち一緒に声を上げる仲間を得、やがて国境を越えたネットワークがつくられていきました。世界各国で中絶が合法化されるようになったのも、女性同士の連帯が原動力になったからこそでした。いまは、性暴力被害者の訴えから始まったグローバルなMeToo運動が、第三波フェミニズムを牽引しているといえるかもしれません。

こうして女性運動のバトンは引き継がれてきました。今、周りにいる次の世代の人たちを見ていると、IT技術を最大限に生かしながら国内外のネットワークをつくり、新しい発想とやりかたでさまざまな課題に果敢に取り組んでいます。前の世代のバトンは着実に引き継がれている、そこに私は希望を見ています。

芦野 由利子 プロフィール
ジョイセフ理事(SRHR専門)。
家族計画民間団体に勤務し約30年にわたり国内・国際協力活動に従事。「グループ・女の人権と性」「からだと性の法律をつくる女の会」など女性運動にも参加。女性の健康と権利の視点から家族計画を含むSRHRの推進に取り組む。

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