ひとジョイセフと一緒に、世界を変えていく「ひと」

大手企業を飛び出し、国際協力の最前線へ。経験のすべてを活かしてアフリカの現場で働く。

海外事業グループ ケニア駐在

藤島 一貴

2023.7.3

ジョイセフのケニア事務所に勤務する藤島一貴は、もともと大手企業で木材の流通事業に携わる「商いのプロフェッショナル」でした。仕事で多忙を極めていたある日、突然意識を失って入院し、高額な先進医療を受けることに。日本の医療や保険制度の恩恵を受けて「もし、これがほかの国だったら?」と世界に目を向けるようになります。そこで知ったのは、あまりにも多くの人々がヘルスケアにアクセスできない、不公平な現実でした。
「気づいてしまったからには、何かやらなければ」と一念発起。安定したキャリアを手放して、想像もしなかった途上国支援の道を進み始めたのです。

目次

1.企業で順調なキャリアを歩んでいた時、突然の体調異変が人生を変える転機に。

2.先進医療と高額療養制度の恩恵を受けた経験から、「すべての人に医療を」と途上国支援の道へ。

3.アフリカの開発現場を見たくて、多くのNGOに視察を打診。受け入れてくれたのがジョイセフだった。

4.すべての人に医療を届けるために、まず、女性をとりまく厳しい状況を変えていく。

5.企業で積んだ「交渉」の経験が、開発事業の現場で活かされている。

6.「心が動く仕事」を究めていくために、新たな学びにも挑戦中。

企業で順調なキャリアを歩んでいた時、突然の体調異変が人生を変える転機に。

― 駐在しているケニアのニエリ県はどんなところですか? 地元の人から、韓国のアイドルグループ「BTS」のメンバーと間違われたそうですね。

首都ナイロビは治安の悪さで有名ですが、ニエリは地方都市で、危険を感じることはほとんどありません。ただ外国人が全然いなくて、アジア人というだけで目立ちます。レストランに入ったら「BTSか?」と聞かれて面食らいました。違うと言ってるのに「まあまあ、一緒に写真を撮ろう」と押し切られ、なぜか記念撮影してきました。
人々はフレンドリーで大らかな一方、支援プロジェクトで建設する出産施設の完成がどんどん遅れていったり、今朝も壊れたシャワーを修理する業者さんが1時間遅刻して来たり。計画通りに進まない物事を、多くの人と関わり、交渉しながら動かしていく毎日です。

― 日本とはやはり雰囲気が違いますね。BTSで思い出しましたが、ダンスが特技だと伺いました。ケニアでのプロジェクトのひとつに、若者が集まって音楽やダンスを楽しみ、セクシュアル・リプロダクティブヘルス(SRH:性と生殖に関する健康)について学んだり、避妊具・子宮頸がん検査などのサービスを受けられる「ユース・オープンデー」があります。ダンスを取り入れるアイディアも出したのですか?

それはジョイセフの事務所で働くケニア人スタッフの発案です。現地のスラムで活動しているダンサーのチームが来て、見事なダンスを披露してくれるんですよ。
僕もダンスは学生時代から続けてきました。それを知った彼らから「仲間になろう」と声がかかり、チームに加わって、オープンデーで一緒に踊るようになったんです。このイベントでは、訪れた若者たちも、運営側の現地協力団体のメンバーや医療従事者の皆さんも、みんなが踊って楽しみます。大学でたまたま始めたダンスが、言葉や立場を越えて人とつながるツールとして役立っていますね。

ホワイトリボンラン2022寄付金プログラムの活動『ユースオープンデー』にて。若者たちのダンスタイムに参加

― 大学を卒業後、最初は民間企業に就職したのですよね。国際協力に関心を持ったのは、どのようなきっかけで?

振り返ると、これまでの経験がすべて今につながっていると思います。
大学で所属していたダンス団体は400人規模の大所帯。様々な役職があり、僕は活動資金を調達する「渉外」を担当していました。公演の中で企業の宣伝をしてスポンサーになってもらったり、宴会場に使う条件で居酒屋から後援を取り付けたり。大学で商学を学んでいて、商いや交渉に関心があったのです。
海外との交易をやりたかったので、視野を広げるため、ノルウェーの大学に交換留学で行きました。北欧は福祉や社会のシステムが先進的で、考察すべきテーマが豊富にあります。帰国後に就職したのは木材の流通で有名な企業です。木材というのは、別に森が多い国にいたからではなく、就職説明会でたまたま出会ったご縁でした。

会社では商売の最前線で働きました。主に欧州や北米のサプライヤーから木材を買い付け、日本国内の市場で販売をする仕事です。そこで重要になるのが、大学時代にもやっていた「交渉」でした。
各サプライヤーが日本向けの輸出量を提示し、商社間で奪い合いになります。そこでうちの会社がより多く、安く買えるように交渉するのです。この仕入れ交渉と合わせて、国内の流通業者への販売価格を交渉し、収益性の高い契約を目指します。海外との取引を伴う業務はハードワークの面もありましたが、自分の成長を実感できる仕事でした。

会社員時代のひとコマ

そんなある日の朝のこと。出勤しようと支度をしていて、突然気を失いました。鈍器で殴られ意識が飛んだような気絶です。30分後に目覚めて出社しましたが、転倒時のケガを見た上司から事情を聞かれ、すぐ病院へ行くように言われました。
病院では即入院を申し渡され、意識消失の原因を調べるため、高額な先進医療を受けることに。病気知らずだった僕は、この体験によって、すべての人が医療にアクセスできる必要を痛感しました。それが途上国のヘルスケアに関心を持った最初のきっかけです。

先進医療と高額療養制度の恩恵を受けた経験から、「すべての人に医療を」と途上国支援の道へ。

― 突然の意識消失というのは、予想もしない事態ですね。激務による過労が原因だったのでしょうか。

その疑いで検査を受けました。脳波や心電図はもちろん、腰から心臓の方までカテーテルを挿入し、心臓に負荷をかける薬を流して反応を見たり、ランニング中の心拍を計測したり。でも、ストレス耐性がアスリート並みという結果が出て、まったく異常なしでした。
原因不明のまま放置はできないと言われ、皮下埋め込み型の心電図計を胸の下に埋め込み、心電図の波形を継続的に観測することになりました。一応死亡リスクがある手術ということで、ちょっと怖かったですね。

でも、感動したんですよ。最先端の医療を受けられて、費用は約150万円もかかるのに、高額療養制度のおかげで自己負担は8万円ほどで済みます。なんてありがたい仕組みだろうと思う一方で、ふと疑問が浮かんできました。
これが開発途上国だったら、どうなっていたのか。検査もできず、不安を抱え、ずっと行動を制限されたのか。
それから世界の医療や公衆衛生について調べ始め、特にグローバルサウスと呼ばれる途上国で、多くの人々が医療にアクセスできない現実を初めて知りました。

気づいてしまった以上、行動を起こす責任を感じました。当時は途上国支援について何も知らず、ボランティアだろうと思ったんです。けれども調べていくうちに、外務省やJICA(国際協力機構)、ジョイセフのようなNGOなど、開発支援を職業にできる機関や団体があると知りました。それでキャリアチェンジしようと決めたのです。

JICA時代、グローバルフェスタで大使館ブースを回り、国際キャリア総合情報サイトの営業を行う

― 民間企業から国際協力の分野を目指す場合、まず何をすればいいのでしょうか。どのようなプロセスで転職活動を進めましたか?

検査の装置を体内に入れて、取り外すまでに1年半かかったので、その間に転職準備を進めました。JICAや外務省のセミナー、NGOのイベントに参加してネットワークを広げ、同時に英語のスキルアップに励みました。

そのうち、国際機関やNGOから「こんなポジションを募集します。受けてみますか?」とお声がけいただくようになりました。コネ採用ではなく、他の応募者と同じように正規の選考を受けるのですが、ネットワークがあると自分に合う採用情報を得やすくなると感じます。
そのような形で、JICAで人材募集があると知り、選考を経て転職しました。入ったのは「国際協力人材部」という、ODA(政府開発援助)に従事する人材の確保と養成をミッションとする部署です。ここで働くと、NGO・国連・外務省など、様々な情報や機関、人々とつながりができるので、国際協力の世界に踏み出す心強いスタートになると思いました。

― たしかに国際協力の分野では、多くの機関や人々がつながりを持って協働していますね。JICAではどんな相手と連携して、どのように仕事をしていたのでしょうか。

よく連携していたのは、たとえば外務省にある「国際機関人事センター」という部署です。そこの担当者と一緒に、大学でODAに関する講義を行うことがありました。国際協力の仕事に興味を持ってもらうために、ODAの歴史をレクチャーしたり、支援活動に必要なスキルを紹介したり。一方、すでに国際協力を志している人に対しては、有利になる資格や経験など、より具体的なアドバイスも行いました。

この国際機関人事センターのほか、世界銀行の東京事務所や海外コンサルタンツ協会(ECFA)とも連携して、イベントを共同開催する機会が多かったです。イベントの企画立案にあたっては、僕が所属していた部署が運営する「パートナー」というウェブサイトのデータを活用して、よりニーズの高い内容を考えました。

「パートナー」は、国際協力分野で活躍したい人のための就職情報や、人材養成・スキルアップの情報を提供する総合サイトです。僕たちは、サイトを訪れるユーザーの属性、人気コンテンツ、動線や時間帯を分析し、そこからイベントを考えました。たとえば「NGOの魅力を伝えるセミナー」を企画して、NGOのネットワークを通じてロールモデルになる人物を探し、登壇を依頼するという具合です。
このように、ウェブサイト運営とデータ分析、イベントや講義の企画立案から実施までを担当する仕事でした。

防衛省でのキャリア相談会。JICAの国際協力人材部のメンバーとしてブースに立つ

アフリカの開発現場を見たくて、多くのNGOに視察を打診。受け入れてくれたのがジョイセフだった。

― 本当に人脈が広がりそうですね! ジョイセフと出会ったのもこの頃ですか?

そうです。もともと、「誰もが最低限の医療サービスやヘルスケアにアクセスできる世界を」というのが国際協力に飛び込んだきっかけだったので、途上国、特にアフリカの現場をこの目で見たいと強く思っていました。
そこでどうしたかというと、仕事の休みを利用して、「国立国際医療研究センター」という研究機関が開講していた国際保健の講座を受講したんです。
このセンターは、国際対応が必要な疾患の診断治療を行うほか、医療分野における国際協力の調査研究、技術者の研修も行っています。また、公衆衛生の分野で国際的に働きたい人に役立つ情報、たとえば各地の大学院で実施されているプログラムや、途上国で活動するNGOのデータを集めていました。
そこで僕はアフリカでプロジェクトを行っているNGOのリストをもらってきて、片っぱしから連絡を取りました。リストの上から順に「プロジェクトサイトを視察させてもらえませんか」というお願いをメールで送ったのです。

その時、お返事をいただけた団体のひとつがジョイセフでした。ザンビアのプロジェクトを視察できると聞き、早速夏休みを使って現地に飛んで、ジョイセフがザンビア各地で整備している「ワンストップサービスサイト」を訪ねました。そこは女性がSRHのケアとサービスを一カ所で受けられる施設です。ジョイセフのスタッフから詳しい説明を受け、アフリカの現状や、支援活動の最前線を見ることができました。

約半年後、ザンビアでお世話になったスタッフからメールが届きました。「ケニアに駐在する仕事があります。採用試験を受けませんか?」それで試験を受けて採用され、2019年8月からからジョイセフで働き始めました。コロナ禍もあってすぐには駐在できず、しばらく日本から出張ベースでケニアと行き来し、その後ニエリの事務所に着任して今に至ります。

日本とつないで実施したウェビナーの準備中。出演してもらう地域保健ボランティアと打合せ

すべての人に医療を届けるために、まず、女性をとりまく厳しい状況を変えていく。

― ケニアでは今、どんな仕事を担当しているのですか?

妊産婦や若者の保健にかかわる開発支援です。現在は外務省のODA事業で、スラム地域の妊産婦が安全に出産できるよう、分娩施設の建設や医療者の能力強化を行っています。また、第一三共株式会社の支援を受けてナイロビで実施している、子宮頸がんの予防啓発事業もサポートしています。

国際ガールズデー2022に向けて、ケニアの女の子たちにインタビュー

― ジョイセフは女性のSRHR(性と生殖に関する健康と権利)を推進するNGOですが、ジョイセフに入る前は特に女性支援を目指していたわけではないですよね。

そうなんです。性別で分けるより、社会的弱者、周辺化された人々を対象として、一人ひとりの医療へのアクセスを妨げる課題を解決していきたいと思っていました。しかしジョイセフと出会ったことで、まさに女性が社会的弱者の立場に置かれている現実を知り、女性支援の必要性をあらためて認識しているところです。

女性には妊娠・出産や特有の疾患もあり、医療とケアへのアクセスが生死を分けます。ここアフリカでは、分娩施設のキャパシティや医療従事者の能力不足の問題があり、いま進行中のプロジェクトでも改善を目指しています。
さらに深刻なのは、「女性という役割」を演じるよう強いられ、脆弱な立場に押し込められるジェンダーの不平等です。そのために医療やケアにアクセスできず、避妊具を使えない、病院へ行く外出も許されないなど、人権を揺るがす問題が起きています。
女性がぶつかる障壁は、あらゆる社会的弱者の問題にも通じているという視点を、今でははっきりと持つようになりました。

会社員時代に積んだ「交渉」の経験が、開発事業の現場で活かされている。

― 開発の仕事をしていて、大変だと感じることはありますか?

物事が予定通りに進まないことですね。2023年の3月末に完成予定だった建物も、大幅に工事が遅れているのに、業者さんは「大丈夫、大丈夫」と繰り返すばかりでした。こんな具合で、日々問題と共存しています。
業者さんが苦労を抱えているのはわかります。こうした公共事業は後払いなので資金繰りが苦しくなるでしょうし、天候不順もありました。なので、こちらも強く言うだけでなく、相手と関わって交渉し、お互いに納得できる落としどころを見つける必要があります。この感覚は会社員だった頃に培ったものですね。

日本人専門家とともに、ニエリで建設中の産科棟の工事品質をチェック

― 商取引で鍛えた「交渉の勘」みたいなものでしょうか。

そう思います。商売において、全員が100パーセント満足というのは不可能です。それぞれ会社や組織を背負っていて、何を譲れるか、譲ってもらうなら代わりに何を提供できるか。そして「この人が相手なら」という人間関係や信頼関係も大きい。今ケニアで進めている開発事業でも、同じことを感じます。

でも、商売とはやはり違う。ちょっと崇高な言い方をすると、みんなで共有するミッションがあって、良い変化を一緒につくっていこうという動機がある。それで実際に人が動くのを見てきました。さっき話した建設が遅れ気味の業者さんも、損得はともかく、地域に貢献できることを誇りに思っているのが伝わってくるんです。

大きな企業で働いていると、そういう全体の「善」とか、自分の信じることを仕事に持ち込むのは難しい。分業のシステムで、歯車としての役割に集中せざるを得ません。
たしか社会哲学の本だったと思いますが、大きな組織で分業が行われた象徴的な出来事として、第二次世界大戦下のアウシュビッツにおけるユダヤ人殺害について読んだことがあります。ガス室で効率的に命を奪う方法を考えた将校が、戦後の裁判で「自分は要請された役割を演じただけ」という供述をしたそうです。
そのシステムでは、ユダヤ人を輸送するドライバー、ガス室に誘導する者、ガス噴出ボタンを押す係など、各人が歯車として自分の任務だけを遂行します。この史実を知り、組織で分業に埋没することの恐ろしさ、人の理性が働かなくなる構造について考えさせられました。

今、ジョイセフでの働き方は、その真逆の方向ですね。プロジェクトの全体に関わりますし、自分の信念や考えを持って、目標を形にしていく仕事だと思います。

ニエリ郡保健局の職員と事業対象施設へ。感染予防対策の実行度をモニタリングする

(左)藤島(中央左)日本人専門家(建設アドバイザー)(中央右)財務担当の郡執行委員会メンバー(右)ニエリ郡保健局長

「心が動く仕事」を究めていくために、新たな学びにも挑戦中。

― 「医療をすべての人に」というのを目標にしていますね。そのために、これからどんなことをしていきたいですか?

高額療養制度に救われた原体験から、保健財政の面でどのように医療へのアクセスを改善していくかという問題に関心を持ちました。

それで今、ロンドン大学の公衆衛生熱帯医学大学院に在籍して、リモートで公衆衛生、特に医療経済に関わる勉強をしています。具体的な科目は、疫学や医療統計、意思決定の科学、経済評価など。限られたリソース(人・モノ・カネ・情報)の中で患者の生活の質(Quality of Life)をどれだけ最大化させていけるか。医療へのアクセスを考える上でも費用対効果(cost-effectiveness)の考え方は重要です。

今は様々な技術を活用して計算ができるようになり、「インプット=何をしたのか、いくらかけたのか」を入れていくと、どのような「アウトプット=結果」になるのかシミュレーションできます。一見、つながりがなさそうなテーマの指標を一緒に入力しても、ちゃんと数値化した結果が出てくるんですよ。様々なインプットを検討して、費用対効果を最大化しながら意思決定に役立てられるので、非常に可能性を感じます。今後、この手法を仕事でも活用できればと考えているところです。

ヤギ肉のニャマチョマ(肉の炭火焼)を食す

― 目標に向かって前へ進み、変化を起こしていくバイタリティーに驚きます。ジョイセフと出会ったことで、何か自分自身に変化はありましたか?

実はジョイセフに来るまで「お母さん」や「子ども」と関わる機会が少なくて、あまり興味がなかったんです。それがケニアのお母さんや赤ちゃんと接するうちに、大事に思うというか、単純に言うと好きになりました。日本の両親や友人と電話していても、私が親子や子育てについて話すことが前より多くなったようで、「ずいぶん変わったね」と驚かれます。
ジョイセフが取り組む母子保健や家族計画は、人と深くふれあう仕事です。ケニアのお母さんが子どもをかわいがったり、大事に育てていたりするのを見ると、うれしい気持ちが湧いてきます。仕事の中で「心が動く体験をする」というのが、ジョイセフとの出会いによって起きた一番大きい変化なのかもしれません。

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